毒親をよく見ると、あちら、こちらに「許せない!」とぶつけていることがわかります。
その究極的な有様は、「人の幸せは絶対に許せない!」までなり果てます。
毒親は自分の存在を許していないことに気づいてないのです。
若いときは体力と未来に希望があるので、許せない気持ちはそこまで大きくなっていません。しかし年をと『りいよいよ幸せではない現実』を体感するようになるのと比例して、許せない気持ちは大きく岩のように固まっていくのです。
毒親は物事の【正しい・間違い】を世間の基準にあわせて生きています。
そこに「愛があるの?」「楽しいのか?」はありません。
どんなに正しく生きても、楽しさや愛がなければ、人は必ず不幸になっていきます。
「自分は我慢をして生きてきたけれど、全然、幸せになっていない。おかしい! 許せない!」が毒親の本音です。
許せない気持ちが大きくなればなるほど、幸せも大切な存在も離れていきます。
しかし自分の許しには努力が必要なのです。
世間の基準にあわせて【正しい・間違い】の価値観を受けいれる姿勢は一見勤勉ですが、他人のいうことをただ聞いているだけです。
その姿勢には、現状の壁を乗りこえる挑戦がありません。
挑戦には【他人から変な目で見られる恐れの克服】や【今の価値観よりも幸せにする努力】が求められています。
自分を許す生き方の追及をすると必ず世間の壁にぶつかります。「そんなことしたら、おかしいよ、変だよ」という心理的な矢が自分に飛んでくるのです。
毒親はこの状態を恐れます。
【正しい・間違い】で物事を受けいれるかぎり、世間の壁は乗りこえられません。
しかし「愛があるのか? 楽しいのか? 皆はもっと幸せになれないのか?」という基準で物事を判断すると、世間の価値観は古かったり、愛がなかったりする事実に気づくことがあるのです。その部分に気づけば挑戦する価値を見出せます。
許す道は、【自己愛】と【利他】の気持ちがなければつづけられません。
実は、「許さない!」は勇気をださずに世間を安易に迎合した結果、生じた感情なのです。
この違いを意固地となり、無視しつづける存在が毒親なのです。