もっちーです
私は毒両親育ちなのですが、母が亡くなるまで父親がサイコパス的毒親だったことに気がつかず、35年ほど生きてきました。
母親にずーっと「親に歯向かうな!」という洗脳をされてきたので、成人するころにはだいぶ心を支配されていました。そのため、表面的には母親の強烈な毒性にやられていたので10代・20代の頃は父親の毒性には全く気がつかなかったのです。
それでも、今考えれば「おかしい・・・」という点はあったとは思うのですが、とにかく母親に劣等感を植え付けられていたので「私なんて・・・」「どうせ私はできの悪い子」というネガティブ思考になり、20歳ぐらいには正しい判断ができない人間になっていたんだと思います・・・。
夫も自身の毒親問題・自分の人生を何とか変えたいという転換期に私と交際していたので、親から逃げ出すように無計画で夫と結婚。
ゼク〇ィのようなsweetな結婚生活は全くありませんでしたが、お互いに絶対に実家には戻らないという決意があったので、結婚15年たった現在は世間がビックリするほど仲が良いです。
夫、本橋良太がそばにいてくれたおかげで、私は実父がサイコパスであったことに気がつけたのです。
そんなサイコパス的父を紹介いたします。
まずは、母が乳がんで闘病中に父が「お母さん死んだら俺一人じゃ墓を買うことができないから、お母さん墓を買っといてくれ」と母本人にお願いした父。
父はもっと前に脳卒中で倒れ、右半身に麻痺が残った身体障がい者になっていたので、それをいいことに散々母に甘え、世間に甘え倒してきた人だったのです。
母の乳がんが発症する前ならまだしも、母の病状が深刻になっても見た目は父の方が重症に見えるものだから、「俺は半身麻痺で大変なんだー!!」って何もしないで母に頼り切って生きていました。「お互いに助け合って生きていこう」なんて微塵も考えていなく、多分その状況というのは私が幼少期のころからずーとその関係で生きてきた夫婦だったのでしょう。
通常の感覚なら、死にそうな人の前で「俺は大変なんだー」とは言えない。
サイコパス的毒父のドン引き発言&行動
「お母さん(乳がん闘病中)、死ぬ前に墓を探しといてくれ」
「ここは坂だらけの墓地だから、墓参りに行きづらいからやめてくれ」
検査入院する前の母に「俺の飯はどうなるんだ、食えるようにちゃんと用意しておいてくれ」
検査入院している母のお見舞いに、父を連れて行っても声をかけることもせずベット脇に置いてある椅子に座っているだけ。
乳がんの切除手術日でも、とくに父からの要望はなく普段通りにディサービスに行く。
母の体力の限界を迎え、いよいよホスピス(終末医療を受ける病院)に行くという日もディサービスに何食わぬ顔をして出かける。前日から兄も私も実家に泊まっていたので状況はわかっていたはず。
私は「父の介護をしながら母をホスピスに連れて行くのは精神的に無理」ということを兄に伝えたが、それでも母の最期の入院になるときにデイサービスに行く心理が許せないでいたな。そりゃそうだ ・・・。
ちなみに母は、ホスピスに入院してからたったの2週間で他界してしまった・・・。
3か月前ぐらいから終末医療を受け始める場合が多いらしい、というのはそのぐらいが普通の生活ができる限界なんだとか・・・。
尋常じゃないぐらいの精神力で父の介護をしていたということになる。
母は酷い劣等感もちなので、人に頼ることが最後までできなかったため自分の命を削って父に尽くてしまったのだろう・・・。
そのころ私はフルタイムで働いていたので、週末しか実家に行くことができなかったが、変に弱音を見せないで頑張る姿を私に見せていた母、劣等感や自己評価の低さ、承認欲求を満たすためにここまでするのか? と今考えるとゾッとしますね。
母がこの世から旅立つ日はさすがに父親を病院に連れて行ったが、最後を家族で静かに見送る部屋が和室だったため、補装靴のままでは畳に上がれない、看護婦さんが新聞紙などをひいてくれたが滑ってしまって落ち着かない、しまいに「足が疲れたから家に帰りたい」という始末。
畳とは知らなかったので室内履きを持ってこなかったのだが、話すことも、目を合わすこともできない母を目の前にして「俺は足が痛いんだ・・・。」と不貞腐れる父に、「てめー、タクシー乗って一人で帰れよ! 多分3万円以上かかると思うけど、自分で何とかしろよ!!」と兄に怒鳴られ、さらに不貞腐れていたな。
その時は、看護婦さんが「まだ、もう一晩はもつだろう」的な感じだったので、夫に迎えに来てもらい父を帰らせたのですが、20時頃に急変したため夫にまた父を連れて病院に来てもらうために電話すると「今自宅の近くのスーパーに寄っているけど、お父さん、電話に出たがらないだ。」と緊急事態なのを察知して電話拒否。「俺はいい。行かない。て、お父さん言っているけどどうする?」と夫も困っていたので、父の意見は無視し強制的に車に乗せて病院に向かってもらいましたよ。
そういえば、無駄な運転をさせてしまった夫に父は何も言ってなかったな・・・、普通の人なら、「ありがとう」もしくは「すまないね~」の一言はあるんでしょうね。
普通なら、まずこんなアホチンなことにならないか・・・。
ここまで書くと、本当になんなだ、このクソジジィは、こんな人に私はバカにされてきたのかと、いまだに怒りがわいてくる・・・。落ち着け、私。
そんなこんなで、何とかギリギリ母の最期には間にあったのですが、母が大好きだった兄は泣いていたと思う。
母が嫌いだった私は泣けなかったが、間違っていた愛情だったけど私のことを愛していたことはわかっていたので、複雑な気持ちでいましたが、その横にいた父は無表情だった。
お医者さんの死亡診断書まち、葬儀屋に連絡し、ある程度の葬式プランをその場で決め、遺体を葬儀場に運んでもらうまでに数時間かかり、父を連れて自宅に帰宅したのは午前2時半すぎだったと思う。
父には、病院内で軽くコンビニ弁当を食べさせていたのですぐに床に就けたが、私は何も食べていなかったので、冷蔵庫に残っていたものと缶ビールを1本飲んでから、座布団を4・5枚並べたうえで寝ました。たしか朝4時ぐらだったはず。
そんな状態で寝ていた私のすぐそばで、父は朝8時頃から日課のリハビリ運動を大きな音を立てて始めたのです。
うるせぇー、死ねー!!と心の声を押し殺し、「ちょっとうるさいんだけど」というと、「俺は毎日この運動をしないと体が固まっちゃうからダメなんだ~」と言い、私の疲労を無視して運動を続けたので、うるさい中しかたなく寝ていましたよ。
洗脳というものは恐ろしいものです、この時は父がサイコパス的毒親なことに気がついていませんでした。母の「親は偉い。」「親に歯向かうな。」がしっかり植え付けられていて、受け入れたくないことでも反抗できない人間になっていましたね。
まだまだサイコパス的言動&行動は山ほどあるのですが、長くなったで今回はこの辺で終わりにします。
よく介護者がストレスと疲労で病気になると聞きますが、愛のかけらもない父なのでそのストレスは想像を超えるものだったはずです。
母の検査入院中に一人で見舞いに行くと、父の介護から解放された母の緩んだ顔が忘れられません。
自分は乳がんで入院しているのに本当に嬉しそうに笑っていて、「ジュースでも飲むかい?」と自動販売機でジュースを買ってくれました。
あの時の母が人生で一番優しい顔をしてた。やばい、泣きそう・・・。
次は、父の介護のため夫と息子を連れて同居したときの話をしたいと思います。
本橋 秀子
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